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2016

evidenceに基礎づけられないもの

狐疑(こぎ)

狐疑とは文字通り、狐が疑うという意味で、武術家の甲野善紀さんが造った言葉だ。

狐は非常に疑い深い動物で、凍った川を渡る時、微かな水音に耳を澄ませて、割れないかどうか確認をする。

戦いの場において、この狐疑の状態は最も弱い。

狐疑の時、“センサー”の感度は大きくなる。警戒心が最大化し、相手のいかなる情報も逃すまいという状態になっている。

この時、何が起きるのか“待つ”ということになる。

バドミントンで言えば、相手が何を打つのか待ってから“反応”するため、“後手”に回っている。

これは“遅れる”ということを前提にしている。

こういう狐疑の相手は1番操作しやすいといえる。

狐疑というのは“居着き”に似ている。

居着きとは何か1つのことに囚われて動けないことを指し、外部からの入力に対しての感受性が高い。

少しの入力でも反応してしまう。

つまり、居着きも狐疑も相手の1つ1つのプレーに過剰に反応してしまう。

そういう人が相手の場合、自分の望む所に動かしたり、自分の望む体勢にさせたりしやすくなる。

それでは、優れたアスリートはどうしているのだろうか。

彼らは起きた出来事に反応しているのではない。

起きる気配に“すでに”反応しているのである。

ほんの微かな時間で体を動かして、球に対して微調整できるように訓練している。

この近未来予測という先を読む感覚は、ウエイトトレーニングや走り込みでは培えないものである。それらをどれだけやってもこの感覚や能力は磨かれない。ただ、だからといって筋力トレーニングや走るトレーニングは必要ないと言っているのでない。筋力トレーニングは絶対に必要であるし、走トレーニングも不可欠なのだ。ただそれだけでは十分ではないということなのである。


それでは、われわれは日々のトレーニングで目指すべきことはどこにあるのだろうか。

孟子に次のような言葉がある。

“いるべき時に、いるべき所にいて、なすべきことをなす”という意味の“天の時、地の利、人の和”である。

“和”とは「なごむ、かなう、ととのう」というのが本来の意味で、“人間的な環境において理に適った行動をすることを指し、正しく適応する”という意味である。

この状況把握能力文脈を読み出す力とでもいえる能力は、数値的に置き換えられる身体能力ではない。

つまり比較考量ができない。そういうものとは違う次元にあるものなのである。

この違う次元にある能力を涵養していくことが、戦いの技術として最も重要なものであるように思われる。

科学的な証拠に基づいてバドミントンをする“Evidence Based”は数値に置き換えることができる。では、数値に置き換えられないような上記の能力にをもとにバドミントンにアプローチすることは科学的でないということになるのであろうか。非科学的態度であるということになるのだろうか。そうは思えない。世の中にはEvidenceに基礎づけられないものが確かに存在していて、ただ今の時点、現段階ではまだ数値化するための尺度を持ち合わせていないだけなのである。100年先、200年先にはその尺度をわれわれは手にするのかもしれない。

科学的にバドミントンにアプローチしていくことはわれわれにとって間違いないひとつの使命である。しかし同時にそれだけでは不十分で、今はまだEvidenceに基礎づけられないものから目を背けてはならない。そこに目を向けることもまた科学的であり得るのだから。

以前の勉強会(⑫コヒーレンス)にも出てきた“あふ拍子はあしし、あはぬ拍子をよしとす”という言葉のように、相手の拍子に合わせたり、無拍子になって自分のリズム、気配を消すということもその1つといえるだろう。

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