Blog

ブログ更新情報


2015

絵本「ペツェッティーノ」から学ぶこと

      誰かの一部ではなく、自分が自分自身であるということ。


Image title



ペツェッティーノはレオ・レオニーが作った本の主人公で、小さなかけら(Little Piece)という意味である。



〜あらすじ〜

みんなに比べて小さいペツェッティーノは自分を「誰かの取るに足らない部分品」であり、何かの一部で「主体性を持たない付属物」だと考えていた。

そこで彼は本体を探しに行くことにした。

「僕はあなたの部分品ですか(Am I a little piece of yours)?」と強い者に聞いても、泳いでいる者に聞いても、誰に聞いても答えはみんな同じだった。

「欠けている部分があって強いはずないだろう?泳げないだろう?」と。

賢い者(Wise-one)は「あなたが僕の一部だとしたら僕は何かが欠けた存在であることになる。何かが欠けた状態でどうして僕は賢くいられるだろうか」と答えた。

最終的に彼は自分自身も部分品でできていているのだと知る。「僕は僕なんだ」と。


これをバドミントンに置き換えてみるとどうだろう。

例えば完璧なバドミントンがあるとする。

自分にはそのバドミントンの「一部」しかない。

だから完璧を求めて日々練習に明け暮れる。

「主体性の無さ」は誰かの言いなり、支配されてプレーすることといえる。

ペツェッティーノがいろいろなものへ発した問いは、自分がどこかで弱い立場にいると思い込んでいて、自分より強くて、賢い、権威のあるものと自分を同一視していたい、とか、考えや思いを同じくしている仲間でありたいと思う心の表れであるかのようだ。


作者のレオ・レオニは、「わたしにとっては、おのれとは何者かを知ることが、もっとも根本的問題です。・・・ただこのことは子どもたちも、無意識のうちに強く心にかけていることなのです。」と語っている。

幼い子ども、未熟な者、バドミントンにおいてはどんなに未熟なプレイヤーといえども何者かの一部ではないといっているようだ。

何かが「欠けていること」「欠けること」があって「できない」ということはある。しかし、できないことがあるからといってできることへの可能性が閉ざされているわけではない。つまり、「才能を欠いている」というわけではない。

私たちバドミントンをプレーする者にとって、何かが欠けた状態で山の上に、頂上に立てるだろうか。そして何かが欠けた状態で賢くあることができるだろうか。常に問われている大切な問題である。

「欠けていることが自覚されていますか?」「欠けていない状態でいられますか?」

厳しい問いかけである。

コメント
名前

内容