Blog

ブログ更新情報


2015

無知とバドミントンそしてコミュニケーション

無知とは、知識の欠如、不足ではない。知識で頭の中が目詰まりして、新しい知識を受け入れる余地がない状態を無知と捉えることができる。

何を訊かれても、自分はなんでも知っている、そんなことはわかっていると応じる態度こそ、典型的な無知の様態であろう。


いくら物を知っているといえど、今自分が用いている情報処理システムを変えたくない人は、自ら進んで無知になるものである。

自分が採用している思考の枠組に固執して、その枠組の組み替えを要求するような新たな情報の入力を拒否しシャットアウトしてしまう。

つまり、その時々の自己都合で無知を作り出すのである。これは自ら無知になって武装をしているといっていい(無知による武装)。

無知は人の根源的な衝動である「学び」を妨げる。

だからわれわれが学ぶことを求め続けようとするならば、それを妨げているJUNK(ガラクタ、役に立たない)な情報を除去することが必要である。


バドミントンをプレーするにあたって、身体の使い方を変えれば、身体的な出力は必ず変わる。

しかし、「こうすれば、こうなる(入力→出力)」等の相関のスキームで物事を捉えることには問題がある。(例:これだけ努力すれば、これだけの成果が出る。)

この捉え方は、努力が成果と相関する結果を数値的に現認したいということであるが、これでは何かが変わったとしても運動の質の変化は分からない。

現認したいという欲望は、身体の使い方そのものの書き換えに対し、強いブレーキとなって働く。


いま、こうした話を聞いていてあなた方は何を感じとっただろうか。

コミュニケーションには、語彙(言葉の意味)のレベルで通じるものと、身体性(非言語的)のレベルで通じるものがある。

身体性コミュニケショーンとは、言葉そのものの意味よりも話している時の間やピッチ響き等、言葉では理解できなくても、なんとなく身体の中に入ってきたという状態のことを指す。

その時は理解できなくても良い。いつか、明日、明後日、はたまた、10年、20年後だとしても、そのメッセージを理解できる段階まで成熟したら、それはきっと言語化されるだろう

もちろん、身体性コミュニケーションで分からない場合、言語化は不可能である。分からないとしても、何かのノイズを聞き取ることが身体性コミュニケーションであり、話している内容が難しい易しいではなく、とにかく、ただただ感じ取るのである。


コメント
名前

内容